【飢餓:食物の不足によって栄養失調が続き、体調の維持が困難になっている状態】
同級生が住む米軍ハウスに居候していて、そこにバンドメンバーのギタリストも転がり込んだ。ハウスには部屋がたくさんあったので狭苦しいことはなかったが、とにかく貧乏。働いてなどいないのだから金がないのはあたりまえ。やがて電気もガスも水道も止まってしまったのであった。以前書いた「自由業の履歴書」シリーズ直前の話。
「通りのむこうに農協がありましたよね。いい方法があるんですよ」とのギター野郎のあとについていった。農協のおばさんをつかまえたギター野郎曰く「うちの犬に餌やりたいんですけど、なんか賞味期限切れのものありませんかね」と。
ギター野郎とおれを嘗めまわすように見たおばさんは、「こっちいらっしゃい」と農協バックヤードへいざなったのだ。そして、ふたりが両手で持ちきれないほどの食物をかき集めてくれたのだった。売れ残り廃棄処分寸前の弁当、硬くなった食パン菓子パン、賞味期限切れのソーセージ、缶詰類、部分的に腐敗が始まった野菜果物類…。久々の食物をむさぼったのであった。
「ね、いい方法でしょ」と得意げのギター野郎。しかし、通りを渡る信号待ちをしていて、そこの床屋の入口ガラス扉に映ったおれたちふたりの姿を見て気づいていたのであった。農協のおばちゃんは、犬の餌をくれたのではなくて、おれたちが食うものに困っていると気づいていたのだ、と。
飢餓のニュース報道から、現代日本にも飢餓があることを知った。「飢餓を経験したことのある人は5.1%で、20人に1人の割合。経済的な理由で、必要な食物を買えなかった経験がある世帯は13.6%」とのこと。
そうか、そうであったのか。おれも、その経験者のひとりなのであったのだろうか。本当にそうなのだろうか?…いや違う、ぜんぜん違う。だいいち、不真面目すぎる。いい歳こいて、働きもせず、好き好んでの自堕落にすぎなかったのだ。飢えた期間だって大問題だ。はっきりとは覚えていないが、ギター野郎との居候生活などとっとと破綻したのだろうし、その後おれは履歴書に書いたように「自由業者」になったのだ。
パレスティナ・ガザ地区の飢餓を伝える報道は痛い。食物不足が、いわゆる自然災害等由来のものでない、紛争絡みのものであるだけになおさらだ。
われわれは、第二次大戦でのホロコーストを学んで育ったはずだ。アンネ・フランクの日記だって知っているだろう。強制収容所の記録写真だって何度も見ているはずだ。これは世界標準ではなかったのだろうか。
ガザ地域の食料不安状況が、最悪の「フェーズ5」だという報に合わせて見る瘦せ細った子供らの写真は、80年前、強制収容所のそれとまったく同じに見えるのだが。 つづく