#099.グランマ

 アメリカのカリフォルニア州サンディエゴ動物園で、推定141歳とされるメスの亀が死んだそうだ。グランマという愛称で呼ばれた「ガラパゴスゾウガメ」。なんだよ、そんなに驚くことかよ、鶴は千年亀は万年じゃなかったのかよ的だ。
 AIくんによると、実際にはタンチョウヅルで30年程度、ゾウガメで200年程度が長寿とのことであった。そうか、そうであったのか、亀は鶴より七倍も長生きであったのだな。すげーな、亀。
 よく考えてみれば、その亀141年生き続けたのは驚きだ。2025-141=1884だもん。日本では明治17年だ。1月には浅草橋が鉄橋になって、4月には山本五十六さんが、9月には竹久夢二さんが生れている年だ。おれらの何代前の時代なのだろうか?…たしか祖父母が明治後期生まれであったから、その両親が生れたころのことなのだろうか。母方の叔母が系図に詳しく、いつか手書き自作の紙を見せてもらったことがあったが、コピーをもらっておくのであった。
 去年の初冬に枯露柿作りを70年超も続けた伯父の話を書いてアップロードした。そして、その翌日にその伯父の訃報があった。電話でその知らせを聞いたとき震えた。同時に、その伯父との縁に感動し、深く悼んだのであった。強く優しく、歌がうまく、いくつになってもかっこいい伯父さんであった、と。
 さらにその半年後に、その伯父の連れ添いの伯母が亡くなった。仲が良かった夫婦、ということであろうが、従弟のショックは大きかったことであろう。きっととうぶん立ち直れないだろう。どんな悔やみのことばも無力、きっとしばらくは煩悶の時期をすごすことであろう。半年間という時間は別として、すでに両親とも見送った従兄として理解したい。
 アホバカポンコツ頭でも、ひとの「死」について考える年齢になった。こと肉親のそれには、その都度メッセージを得ようと務めてきた。そして、おぼろげながらでもたどり着いた思いはこうである、「両親など、実は死んでも死にきれやしない。魂は絶えず子らの周囲からひとときも離れることなくありつづけ、やがてそのすべての子らが他界するまで現世にありつづける」と。
 宗教を学んだわけではない。読経など聴いていても、なにひとつ理解などできないでいる。読経後の説教などただ退屈なだけだ。しかし、どう考えても両親は自らが産み育てた子らを残しての夭折には悔いが残るはずだ、まったくもって「死んでも死にきれない」のだ、と考えるようになった。
 いつかその子らが全員亡くなって、それを迎えた後、しばらく「浄土」にて皆して団欒を過ごす。そして、やがて再生してゆくのではないか、と。
 このように思うようになってから「死」への恐怖はやや薄れ、ある種、生のロマンティシズムに酔えるようにもなった気がしている。
 人生は長いぞ。「…ま~だ、ま~だ、今っから始まりじゃん」と祖母の口癖が聞こえる。