#074.誤植、下

 伊勢屋の「セールス・マネージャー」を名乗る女性から電話があった。マネージャーというからには、こういったトラブルをなんとか収める役割なはずだ。
 二十数年間もの盆暮れ、毎度毎度ののべ五十数回にわたって先生屋号を間違え続けていたのだ。どうしたらいいのか?いったい、どうしてくれるのだ?と抗議。酒が入っていたので、たぶん強い語気で話していた、と思う。
 ところが、だ。話せば話すほど、時を経れば経るほど、どんどん落ち着いてくるではないか。テンパイ寸前もどこ吹く風、といった具合。理由は簡単、このひとの声、しゃべり口調が、脳科学者の中野信子さんにそっくりだったからだ。
 かねてから彼女のファンで、著書も何冊か読んでいた。なによりも、毎週金曜日昼の彼女出演番組は欠かさず観ている、といったところ。彼女は、その金曜日出演時、毎回髪型衣装の風合いを変えていろいろないい女加減を楽しませてくれているのだ。まさに七変化。
 伊勢屋マネージャーのしゃべり口調は、落ち着いていて理路整然。その雰囲気にやられてしまい、もう頭の中は中野信子さんでいっぱいになってしまったのであった。まさに、蛇に見込まれた蛙状態。
 彼女は、こういった類の不手際経験はなく、上席や周囲の関係者から対処方法を取材する、と言った。そして後日お詫びに伺います、とのこと。いやいや、いいですよ。こちらから行きますから、としたのであった。
 それからの二週間あまり、彼女と何度かの電話やりとりが行われた。そして、誤植が行われたと思しき期日タイミングについても判明したのだ。しかし、取り返しは無理なこと。当初、伊勢屋とは絶縁し他店への総移行も考えたのであったが、彼女がそれを慰撫したのであった。
 …ティファニーやブルックス・ブラザーズに行けなくなるのはつまらない。老舗の文具店も優秀だし、地下の箱菓子売り場だって充実してるもんな。ここは、なんとか収めて伊勢屋との付き合いを継続するが得、といったところだった。
 誤植のあった先生屋号「平」の字を、正しく「中」の字に修正してスッ恍けてしまうか?しかし、彼女はそれについて反対した。それでは、先生にご指導いただきたいことがあるので、として酒の席を設け、そこで正直に謝罪するか?それはいいアイデアですね。わたくしも同席させていただきます、と彼女は言った。
 誤植発覚から二週間あまり、なんとか収まりそうな気配である。しかも、頭の中は中野信子さんで満ち、日々の生活が活き活きとしたことといったらなかった。しかし、しかしである。こんなうまい話があっていいものであろうか。ない。
 もう気付いていたのであった。勝手な妄想で、その実、伊勢屋にうまくまるめこまれてしまっていることを。進物オーダー当日、伊勢屋に出向き彼女と会った。
 まだ6月だというのに、この連日の暑さ。早くも重篤にバテてしまったのでありました。彼女は蛇ではなく、オニオコゼだったのです。   おしまい