#071.その女

 その女が黒いパンツスーツ姿で突然現れた。その女とはこの店で飯を食ったことがない。
 同席していた女などまるで目に入らないようにして、その女が空いた椅子にさっさと座った。荒い息を整えるようにしてから、冷静さを装うような声音で「何やってんの?…へえ、こういう店にも来るんだ」と言った。たしかに、この店はやや値が張る店で、その女とは来たことがないのだ。
 その女の体が小刻みに震えているのがわかる。薄暗い店内にもかかわらず、口紅がくっきり赤い。こちらを凝視している目が尋常ではない雰囲気で、絶体絶命状態としてフリーズするしかない。その女が、ポーチからタバコを取り出し銜えたタバコに火を点けようとしたので「禁煙だよ」と言うのがやっとだった。
 もう何杯も飲んでいるグラスの酒はどうでもいいのだが、まだ食べ始めたばかりの料理はもうこれ以上食べられないだろう。きっとこれは、テーブルを囲む三人に共通の思いだ。人間の三大欲というものを実施できない状況とは、こういうケースにおいてなのだ、ということを知った。
 長い沈黙にいたたまれなくなった女が、紙ナプキンで口を拭って席を立った。その女は、そんなことなどおくびにもかけない様子でこちらを凝視したままだった。袋のネズミ状態。
 困ったことになってしまった。いつかきっとバレるであろう、とは考えてはいた。善後策もいくつかは用意があった。しかし、こういった抜き打ち突発的状況とは、まったくの想定外なのだ。「飯食ってただけだよ。…やってねえよ」などと言えばいいのだろうか。無策であった。…ここから先の記憶がない。
 広い月極駐車場に止めた車から忘れていたスコア綴りを取り出し、ドアをロックした。長くなった陽も落ち、闇が青みを帯びている。
 と、駐車場の奥からだれかがこちらに走ってくるのがわかった。その女だ。黒いパンツスーツが闇に紛れて瞬時にはわからなかったが、くっきりと赤い口紅ではっきり認識できた。
 どうしたのだろう。やはり和解を選択したのだろうか、ちらとそう思った。が、その女が走り寄ってくる速度を緩めなかったので、ほんの刹那、にだ。
 その女に体ごと衝突されたのと同時に、左の下腹に刺激があった。鋭く深く熱く、それは痛みとは違って、一気に血圧値を下げるような、悪寒のような、動物学的に生ける命の魂の叫びのような感覚なのであった。
 救急車のサイレンが少しずつ近づいてくるのがわかる。視力が落ちて暗いはずの景色が、薄ぼんやりと白味がかっていて不思議だ。カラスがカァーと鳴いた。営巣期、気が立っている鳴きかただ。
 ここで目を覚ました。汗だくだった。うつぶせ寝の、左の下腹の下にテレビのリモコンがあった。