初冬の甲斐路をJRで旅した。
電車が勝沼ぶどう郷駅を過ぎると甲府盆地に入る。ひろく遠くに、いくつも野焼きの白煙が見えていい天気だ。
やがて塩山駅から山梨市駅までの線路脇に柿の実が鈴生りになっている。見たところ、渋柿の品種「百目柿」のようだ。「ひゃくめがき」と読む。渋柿なので、そのまま食することはできないが、これを収穫して手を加えれば渋みが抜けて甘くなる。
どうして収穫しないのかを叔父に尋ねると、「枯露柿」をつくる後継者が不足していて収穫すらせず放置とのことであった。製品化すればそれは、この地域の名産品、「ころがき」になる。放置された柿の実は、カラスなどの鳥たちに突かれるか、やがて熟して地面に落ちてしまう。
そういえば、母方長兄の伯父も72年も続けたという枯露柿づくりを引退したばかりだ。…72という数を聞いてたまげたものであった。「山梨県枯露柿ころころ文化財団」でもあれば、終身名誉会員になって表彰ものだ。
百目柿の収穫を何年か手伝ったことがある。立冬寸前の11月上旬、それこそ大人の握りこぶし3つ分もの大きな実を収穫するのだ。広い敷地に何本もの百目柿の木があって、大人が数人一日がかりで収穫する。あとは伯父と伯母が昼の日向で皮むきをして、それを軒先に吊るす。冬の日差しと寒風で乾燥させるのだ。
やがてそれは3分の1くらいまで小さくなり、12月のクリスマス前に枯露柿として出荷される。柿の赤み色が深くなり、表面に白く粉を噴く。甘く独特の味わいだ。地域伝統のドライフルールである。
この地には、この百目柿の木がそこら中にある。一説によるとそれは昔むかし、苗木がこの地に嫁いでくる女性の嫁入り道具だったから、とのこと。だから、伯父の家の敷地にも、いたるところに百目柿の木があった。
敷地の西側には竹林があって、その中に古い墓石が並んでいる。どれもこれも苔むしていて、墓石表面に彫られた文字を読むのは難儀だが、どうやら江戸期からのもののようだ。
代々この地に嫁ぎ、彼女らが持ってきた百目柿の苗木が育ち、やがて実がなる。それを加工して食す。その伝えが今でも延々と受け継がれていると考えればロマンティックな話だ。
72年も枯露柿をつくり続けてきた伯父にも後継者がいない。子らは皆、都会に移り住み暮らしている。その伯父が、敷地にある百目柿の木をほとんど切ってしまった。
伯父の気持ちもわかる。鈴生りになった百目柿を、収穫もせずに放置するのはやるせないのだろう。じくじたる思いで伐採したのに違いない。
先祖代々のお嫁さんたちもわかってくれるだろう。そう願いたいものだ。