#021.白菊の花葉を雨露が濡らした

 映画ゴッド・ファーザーPARTⅠで、マーロン・ブランド演じるドン・コルレオーネが、その長男であるソニーをファミリーの前でたしなめるシーンがある。「ひとまえで本音を喋るな」と。厳しく。
 昭和日本にも似たようなせりふがあった。「男はひとまえで泣いてはいけない」と。頑固親父の定型句である。
 「泣く」という行為状況におけるその心理状態は、「もう、どうにもならない。打つ手をすべて失ってしまった」というものなのだ、と。
 ひとまえで泣くという行為は、ひとまえにその状態を晒す行為だ。ひとに、やすやすと弱みを見せるな。
 …頑固親父に、そんなふうに言われ続けてきた。徹底的に暴力的に、である。ものごころついたころからブッとばされまくってきた。現代だったら、親父は虐待で逮捕。それも、何度も何度も毎月のように逮捕されていたであろう、くらいにだ。
 かくいう親父はどうであったか?その親父が泣くのを一度だけ見たことがある。ジャイアンツ長嶋茂雄さんの引退セレモニーのときであった。
 この日は、後楽園球場でダブルヘッダーが行われ、その二試合目がシーズン最終戦、長嶋さん現役最終試合だった。
 テレビが生放送しているということもあり、それを見たさに学校から走って帰った。
 すでに試合は終わっており、長嶋さんがピッチャーマウンドのマイクスタンド前でホームベース方向にむかってハイトーンで喋っていた。例の伝説的シーンだ。茶の間でそれを観ながら、親父が無言で涙を流していたのである。
 引退セレモニー終盤、長嶋さんは泣きながら球場グラウンドを一周歩いた。テレビ中継を観ながら、親父もいっしょに泣いていた。
 親父の泣くのを目にしたのは、たった一度、このときだけだ。実母、おれらにとっての祖母の死の際も涙を見せなかった。
 私生活でも、生涯において弱音など一切口にしなかった。生涯現役徹底的に暴力的で、いい歳になってからもひっぱたかれていた、グーで。
 そろそろ梅雨の走りでもあろうに、ずっと晴れの日がつづいていた。それが、夕方にしとしと雨になった。白菊の花葉を雨露が濡らす。
 親父の下がりのタイピンとカフスをつけ、親父が雨の日に孫を抱いて散歩させていた大きい黒傘をさして歩いた。